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2022/01/21

山本一生『百間、まだ死なざるや』を読み終える。昨日も書いたが、思い起こせばあれは私がハタチ頃だったか、当時私は小説家志望の学生だった。作家への指南書を読んで内田百閒の『冥途・旅順入城式』が必読書の中の一冊に挙げられているのを読んで、早速岩波文庫に収められている一冊を買い読んだのだった。それまで百閒のことは全然知らなかったので、『冥途・旅順入城式』を読んで夏目漱石『夢十夜』にも通じる恐ろしい(この「恐ろしい」は、「怖い」というのもあるし「崇高な」という意味も含む)世界に度肝を抜かれた。

爾来、折に触れて私はこの『冥途・旅順入城式』及び『東京日記』の文庫本を読み返してきた。ハタチ頃に買った文庫本はコートのポケットに入れて持ち歩いていたためボロボロになってしまった。何度読んでも飽きが来ない。オチが分かっていても面白く感じてしまうのだから、百閒の語りはさながら古典落語にも似た独自の巧さ/旨さを備えたものだと思う。今回『百間、まだ死なざるや』を読み、この掴みどころのない内田百閒という作家の凄みの片鱗を知った気がした。いい本を読んだ、と思った。私なりに言えば「コクのある」本、というべきか。

ハタチ頃、私は古典というものをさほど熱心に読んでいなかった。新刊ばかりを追いかけてしまう人間で、夏目漱石や内田百閒など岩波文庫に入っている作品なんて古臭いとばかり思っていたのである。ある意味その「古臭い」と思ってしまう心理は当然のことなので(「古典」なのだから)、今のように古典ばかり読むようになったのはどういうきっかけだろうか考える。多分慣れたからだろう。古典の中に備わっている「悠久の時」というか、古典の中のゆったりした時間を楽しむゆとりというものができてきたのだと思う。その時間に慣れると、逆に今の作品の空気がけたたましく感じられる。

『百間、まだ死なざるや』を読み、私は百閒というしぶとい人物の凄みに触れ、改めて尊敬したい気持ちが湧いてきた。人一倍繊細で、それでいて人一倍大胆。大学の教官という職を得て安定した収入があるのになぜか借金に苦しみ、戦争に翻弄され掘っ立て小屋暮らしまで経験した人物。どん底を経験し、その中で本当に「まだ死なざるや」な人生を生きた人物が書いたのだと思うと彼の『冥途・旅順入城式』『東京日記』の凄みが改めて際立ってくる。私が受け継げるのはなんだろう。せいぜいカネがないなりに楽しく生きる知恵と猫への愛情くらいかもしれない。

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