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2019/12/26

人生に意味はない。でも、楽しい。それでなにが悪いのだろう……そんなことを二十代の頃から延々と考えて来たように思う。それは宮台真司の「意味から強度へ」「まったり生きる」という概念を学んだからだろうと思う。つまり、「この人生になんの意味があるんだ」とクソ真面目に問うのではなく、むしろその時その時起こる楽しいことに素直になってみるという生き方だ(宮台真司自身はあまりこの発言を顧みないが、私は今も生きる指針のひとつにしている)。

私は宮台真司の本を読み漁っていたのと同じ時期に、フィッシュマンズという日本の伝説的なロック・バンドの曲を聴くようになった。今でも彼らの曲は私の傍らにある。彼らもまた、人生に意味はないと歌っていたのだった。でも、それは絶望なんかではなかった。いや、絶望だったのかもしれない。誰も頼まれてこの世に生まれて来たわけではない。気がついたら(いきなりゲームの中に投げ込まれる『ジュマンジ』ではないが)この世に居たのだ。ただ、そういう条件で生きること、楽しむことをフィッシュマンズは薦めていた。やけっぱちになりながら、しかしエレガントに。

最近、『シャングリラの予言』という本を読み植草甚一について学ぶようになった。そして、植草甚一もまた人生に意味はないと居直っているニヒリストである、という旨の文章を読んだ。どうやら私の人生、この「人生は無意味だ」という言葉と「でも楽しければ良い」という言葉を往復する運命にあるようだ。人生の圧倒的な下らなさを噛み締めつつ、しかしそれでもなおその下らなさを生き切ること。しかもユーモアを以て。

ここのところ、古井由吉の書いたものを読み返している。古井由吉は考えれば考えるほど不思議な作家で、内向の世代に属する作家であり自分の考えを内側にずっとめり込ませた孤高の文士(?)のように思われる。しかし、読めば彼がむしろ風俗や文化の変化に敏感だったことが知られる。外をきちんと見ていたのだ。そのヴァランス感覚の巧みさ故に、古くなっても腐らない強度があるように感じられる。老いていく。しかし、それを嘆く必要が何処にあるのだろう。アンチエイジング? 老いるなら自然に任せようではないか。『仮往生伝試文』や最近の作品を読みながら、私は自分の老いについて改めて考える。

今日も仕事。相変わらず誰にでも出来る仕事。だが、ホリエモンやイチローに倣って腐った意識を捨てて、虚心に自分の仕事と向き合う。私の仕事もまた下らない。しかし、楽しい。何度でも書く。断酒して流す汗は心地良いし、シラフで食う飯は旨い! 今日は映画も本も消化出来なかった。Discord で私が書いている英語の小説を褒めてもらう。嬉しく思う。成功しなくても良い。確かに、私の書いているものが必要とされている人に伝わればと思っている。

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