discocat

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今日は発達障害を考えるミーティングに参加した。兵庫県は緊急事態宣言が発令されているので、ZOOMを使ったオンラインでの集いとなった。私も今の仕事での悩みごとを明かし、どうしたらいいのか解決策を練る。働くとはなんだろう、とふと思った。むろん金が必要だから働くのだけど、しかしそれだけだと味気ないようにも思った。働くことを通して幸せになりたい、自己実現を図りたい、役に立ちたいという動機が大事なのではないかとも思った。そういう動機を持てるように仕事を捉え直すことが肝要ではないか、と。

ミーティングが終わったあと少し仮眠を取って、ミヒャエル・ハネケ『ハッピーエンド』を観た。家族とはなんだろう、と考えた。私は家族とは仲がそんなによくないのだけれど、でも両親が私みたいな子どもを大事に育ててくれたことの恩は忘れたくないと思っている。ハネケのこの映画は決してわかりやすくドラマを展開するわけではないが、注意深く観ていると家族がそれぞれ問題を抱えていてそれを個人的に解決しようと躍起になっているのがわかる。私もかつて、仕事を辞めたいと思い、誰にも打ち明けられず自殺未遂をしたのだった……。

夜、時間を持て余したので『天才たちの頭の中 世界を面白くする107のヒント』を観る。北野武やタランティーノといった「天才たち」に創造性の秘訣を訊いた映画であり、単純な「創造性」とはなにかという問いが次第に深められて考察されていく。どの「天才たち」も誰かに迎合せず自分だけの哲学を持っていることがわかって面白かった。彼らが頭の回転が速いことに恐れおののいてしまう。最後まで観終えても結局「クリエイティビティとは?」はわからなかったけれど、ここまでコメントを集めたことは評価されていいだろう。

前にも書いたのだけれど、私は40になった時に断酒を始めた。そしてそれと並行して、映画を観ることを始めた。最初はゴダールを観ても全然わからなかったけれど、次第に慣れてきた。自分がそうやって変化し成長していることが嬉しく感じられる。今のこの状態が絶対ではない。映画を楽しめるようになれた今、映画と付き合ってきてよかったと思った。これからも映画は観るだろう。今、この瞬間から始めたことが意外な形で結実する可能性がある……この日記だってそんな「今でしょ!」という気持ちから始めたのだった。そんなことを思い出した。


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今日、仕事をしていて「有難う」と言われた。「有難う」……いい言葉だ。前に居た部署では、どんな仕事をしてもそれは「やって当たり前」という雰囲気のところだったので「有難う」なんて言われることはなかった。今の部署では他の方から(直属の上司は絶対に言わないけれど)「有難う」と言われることが増えてきた。「有難う」……魔法の言葉だ。これを聞くと自分が有用な人間になったという実感を味わえる。役に立っている、支えている、という実感だ。意外とこうした言葉がけひとつで働く意欲は左右されるものかもしれない。

昔、小説家になりたいがために長編小説を真剣に書こうと思い、頑張ったことがある。仕事そっちのけで書いて、結局ものにならず「向いていないことは止めなさい」と言われたのだった。今思えば私は間違っていた。生活がしっかりしていないのに良い小説なんて書けるはずがない。仕事や私生活など、自分の生活を整えることが大事だ。むろん、太宰治のように生活が破綻してもいいものを書いた作家は居る。ゴマンと居ると言ってもいい。だが、私は幸か不幸か太宰ではない。それだけのことだ。いい生活をしていれば、いいものが書けなくても幸せだ。いいものが書けないなら、私に才能はない。それだけのことだ。

エリック・ホッファー『波止場日記』を読んでいる。「活気のある社会は、玩具に心を寄せ、必要なもののためよりも不必要なもののために懸命に働く人々のつくる社会である」。ホッファーがどういうものを「不必要なもの」と呼んでいるのかわからないけれど、もしそれが娯楽や安らぎのためのもの、一見無駄とされているもの(だが、その無駄な余剰が楽しみをもたらす)であるとするなら私も賛同したい。エッセンシャル・ワーカーがこの社会を支えているのは確かだが、それだけが社会に有用な仕事というわけではない。これについてはまた考えてみたい。

マジッド・マジディ『少女の髪どめ』という映画を観る。その後ZOOMでミーティングに参加し色々話す。LINEでたまたま知った思想専門のグループのミーティングで、今日は自己紹介と少しゲームをしたのだけれど楽しかった。私が抱えている悩みや関心を共有できるグループのようであり、私自身も参加者として認めてもらえていると思った。こうした居場所があるということはいいことだ。冒頭で書いた「有難う」も、私のために他の方が居場所と作って下さったということかなと思う。私はやっと居場所を築いた、ということかもしれないと……。


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メンタリストDaigoの意見が波紋を呼んでいる。私は当の動画を観たわけではない。文字起こしされたものを読んだだけなので誤解があるかなと思うが(誤解はむろん、私の側に責任がある)、私自身かつて生活保護で暮らすことを検討したことがある。通っていた病院の医師からそう言われたことがあるし、かつての知人からも「働かず、生活保護でラクして暮らしていけばいいじゃないか」と言われたことがあるのだった。だから他人事とは思えなかった。ただ、私は働いている。働けるなら働きたい。稼ぎは大したものではないのだけど……。

医師に「生活保護があるから、野垂れ死にということはないよ」と言われた時、私は絶望で目の前が真っ暗になるのを感じた。なぜなのか自分なりに言葉にすると、生活保護は本当に困った人が選ぶ最後の最後の手段という思い込みがあったからだと思う。雨宮処凛みたいな人は生活保護をもっとカジュアルに使って暮らそうと言っているし、海外でも生活保護をもらって音楽制作に勤しんだミュージシャンのインタビューを読んだことがある。生活保護に関するイメージも、今では随分変わった。だが、医師に言われた時は自分は本当にそんな瀬戸際まで追い込まれているのかと思って暗澹としたのだった。

なぜ働くのだろう……この問いは答えるのが難しい。「なぜ働く?」という漠然とした問いに対して、私は「『私は』働きたいから」という個人の意見/見解を語ることしかできない。つまり、問題は私の側に引きつけて考える必要がある。人生について考えるのと同じだ。「なぜ生きるのだろう?」「私は生きたいから」……そっくりだ。一般論として、みんなに該当する答えなんてない。私が私の人生を振り返って、私自身に当てはまる答えを出すしかない。ごまかさず、私自身の人生を見つめ直す必要があるのかもしれない。

今日は遅番だったので、昼に今福龍太『ジェロニモたちの方舟――群島‐世界論〈叛アメリカ〉篇』という本を半分ほど読んだ。広島に原爆を投下したアメリカ人が、自分の良心の呵責に耐えきれずしかしアメリカ国内で原爆を肯定するムードに押され、混乱したという逸話が紹介されていた。正義は相対的なものなのだろうか。私は、こんなに混乱した世の中であってもシンプルに考えたい。どんな人の人生にも意義がある。誰もがしかるべき居場所を与えられてこそ輝く。無駄な人生も死も存在しない。それで事足りる。そう信じている。

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リチャード・リンクレイター『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』という映画を観た。この映画の中に、恐らくは学生気分をもっと味わいたいという理由からか三十路になっても学生たちに混じって野球をし続ける男が登場する。彼は最終的に学校から追い出されるのだけれど、私はこの男を嫌いになれない。学生時代や青春時代とは、そういう風に人をそこに留めておきたくさせるような魔性を備えているとも思う。だが、人はいつまでも子どものままでは居られない。私もまた然りだ。大人にならないといけない。

とはいえ、大人になるとはどういうことだろう、とも考える。私は大人になったのだろうか。子どもの頃から本を読むのが好きで読んでいて、その他音楽を聴き漁る日々が今になっても続いている。子どもも妻も持たないのは私が選んだ道だから誰にも文句を言うつもりもないが、未だに大人になったという実感がない。大人になる、というのはきっと頭であれこれ考えるのではなくて実際に社会に身を晒して、やらなくてはならないことをやって、そのプロセスの中に己を投げ込んで生きていくことなのかもしれない、と思った。

ああ、かつての自分は不平不満ばかり口にしていたと思う。社会について、自分について、不平不満ばかり……こんな仕事しかさせてくれない会社を恨み、こんな仕事しかできない自分を恨んだ。だったら辞めればいいようなものだが、辞めることもせず現状を変えることもしないで、ただ文句ばかり言っていた。今、心穏やかに過ごすことができて、不平不満の数もグッと減ったと思う。自分は弱いかもしれない。でも、弱いからこそできることもある。「弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えているのだ」(エリック・ホッファー)。

仕事をして、映画を観て、本を読む。そんな日々が繰り返されていく。この繰り返しに意味があるのか……別段批評家になりたいという欲もない。この日記だってなんのために書いているのかわかりゃしない。多分生きるというのは、人生の中に身を投じて瞬間を生きること、予測もつかない現実の危険の中に身を晒すことの謂なのだと思う。昔、「働かず生活保護で暮らすなり、親に寄生するなりしたらいいじゃないか」と言われたことがある。確かにそれは利口な生き方なのだろう、と思う。でも、私はその生き方を選ばない。なぜなのだろう。わからないが、私は自分にしっくりくるスタイルで生きることを選ぶ。


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朝、『THIS IS US 36歳、これから』を観る。いつもながら堅実に作られた渋いドラマだ。それぞれの人物が自分に課せられた試練を乗り越えようとしている、その誠実さが伝わってくる。演じている俳優たちも自分の役柄をどう捉えるべきか、自分なりに試行錯誤して解釈しようとしているのがわかる。その誠実さ故に、悪く言えば息苦しさを感じることもある。3枚目のお調子者っぽいトビーという男に惹かれる。彼が出てくるとそれだけでこのドラマが軽くなるように思われ、安心できる。この俳優、一体どういう人なのだろう。

図書館に行き、エリック・ホッファー『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』を借りる。そして読み始める。エリック・ホッファーという人物に興味を持ったのは最近のことだ。肉体労働で稼ぎながら自分なりに思考を練り上げた人ということで、教育制度とは無縁に勉強をしてきた人故の知性を感じる。私も――むろん、僭越とは思うが――見習いたいと思った。「慣れ親しむことは、生の刃先を鈍らせる。おそらくこの世界において永遠のよそ者であること、他の惑星からの訪問者であることが芸術家の証なのであろう」という言葉に襟を正す思いがする。

バーラ・ハルポヴァー&ヴィート・クルサーク『SNS-少女たちの10日間-』というドキュメンタリーを観た。私は、女性として生きたことはない。だからこの映画で語られる「少女たち」への男の側からの暴力的な性的欲求が彼女たちをどう傷つけるか、想像で補うしかない(グロテスクな男性器を見せつけられることが、彼女たちをどう傷つけるだろうか?)。実に興味深い映画だと思う。ただ、彼女たちが自分の受けた傷をもっと言葉で語ればと思ったのも確かだ。むろんそれがセカンドレイプになっては元も子もないのだけれど。

夜、断酒会に行く。ああ、今の会社で20年以上働いて、いずれはビッグになる、いずれは金持ちになる、いずれはこの会社を辞めて立派な男になる、と思って……結局なれなかった。思うことと言えば「早く死にたい、こんな人生を終わらせたい」とそればっかりだった。酒で死ねたら本望と思っていた。捨てる神あれば拾う神ありというが、そんな惨めな人生を送ってきた自分も40代を迎えてなかなか味わい深い人生を生きているように感じられる。これからどんな人生が待っているのかわからない。私はただ、フラフラと流されて生きていくだけだ。

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