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人生との別れに触れて。

2020年02月24日(月)記

自分は、去年大好きだった、母方のお姉さんを亡くしまして。

母方の実家は米農家でして、嫁がれても何かと栽培したかったのか、畑を1マス借りて、毎回何かしら作物を作っては食べきれないからと送り付けてくれるおばちゃんでした。

訪ねて行くと、天ぷらそばを気前よく出前に頼んじゃったり、車の運転を心配して仮眠したらどうだとか言ってくれたり。

おばちゃんの作ってくれるそら豆が大好きでしてね。

毎年、ぶーぶー言いながら皮をむいて、大き目のザル山盛りになって出来上がったそら豆を、独りで半分は平らげてたもんです。

そんなおばちゃんが、実は認知症になっていたと言うのである。

息子の言うことも聞かないことが多く、母親が行って何とか説得したりなどがあったらしい。

せめて、その事実だけでも教えてほしかったし、認知症の初期なら自分を思い出してくれる時間もあっただろうに。

「おばちゃんはそんな姿見られたくなかったと思うよ」

と、母が勝手に言う。

おばちゃんが言ってたなら納得する。

そして、ある日長男が仕事から戻ると、おばちゃんが倒れていたそうで。(次男は家を出て、ご家庭を持ってらっしゃる)

直接の死因は聞いてませんが、心不全扱いなんだろうなとは思っています。

葬儀に合わせて、レンタカーを借りるかもしれないからよろしくと言われていたんだが、兄貴が格安で車を譲ってもらってて、持ってるから兄貴の休みが取れるならそれで行くし、ダメならおばちゃんの息子さんの車で行くと言う。

そりゃ、自分はバイクしか持ってねーけど。何か扱いがひでぇ気分。

結局、兄貴が休み取って車で行く事になったんで、自分はバイクで行きましたけどね。

昔から、通夜から火葬までの間は、寝ずの番と言うのがあります。

一晩中線香を絶やさず上げ続ける。

息子さんたちがそれをするのが当たり前ではあるが、色々とお疲れだろうとは思う。(他の人たちや自分の家族はホテルに行った)

最初は頑張ってらしたけど、途中から起きなくなってしまった。w

そうなることがわかってた係員の方に、布団と枕と毛布の場所を教えてってくれてたので、息子さんたちに枕と毛布を与えて、おばちゃんの居るそばで、最期の語らいをしながら寝てたんじゃないかなと思う。

自分は、おばちゃんとの最期の時間になるんで、自分も会場に残り、夕飯酒盛りで余ったおかずを肴に、NHKを見ながら寝ずの番をしてました。

夜中起きてるのは得意ですし。w

つつがなく式は執り行われ、火葬も済み、納骨も済んだ。

家に帰って、おばちゃんはようやく色んなしがらみから解放されたんだなと思った。

旦那さんは早くに亡くなったそうで、女手ひとつで息子2人の面倒を見て、次男は結婚して2人のお子さんに恵まれ。

長男は、母親が気がかりで、婚期を逃しつつ母親の面倒をみていたそうな。

仕事をしてれば、日中誰も居ない時間が出来てしまう。

それがきっと寂しかったんだと思う。

ずっと畑の世話をしていたそうだが、ある日原付でこけて、手首を骨折されてしまったそうで、そこからもう転げ落ちるように認知症になってしまったらしい。

歳をとってから、独りで居る寂しい時間。息子が帰ってくれば幸せな時間。そんな毎日だったのだろうなと思う。

それを聞かされたのは、葬儀も終わり、自宅に戻ってからだった。

認知症の初期なら、会わせて欲しかったもんだとぼやくと、上記の返事。

あんたはそうかもしらんが、こっちはそうじゃないし、本人が言ったわけでもねぇだろとケンカに。

いやはや。自分もまだまだ大人げない。

49日でお墓に納骨するはずなので、そこまで参加させてもらいたいとメールで伝えておいたんだが、返信が全くなし。無視されっぱなし。

で、しばらくしてから「私ひとりで行ってきました」とだけメールが。

そんなら、最初からさっさと返信してくれりゃ良いじゃねーの。

まぁ、それから捻くれたよね。大人げなさすぎだけどね。

「今後、おばちゃんに関わる法事には一切出席しません」

とメールしてやった。

お墓まいりだけなら、自分で勝手に行けば良いだけだし。

父親の墓まいりも、第二の母と呼ぶ方のお墓まいりも、全くしてないですけどね。

人が死ぬと、周りの人は悲しむ。

なぜなんだろうと、いつも思っている。

人間の絶対は「死亡」だけなのに。

ちょっと早かったり、遅かったりするだけの話ではないかと。

そんな自分は、周りの人から見ると冷徹な人間に見えるだろう。

少しでも、自分の血縁者と縁を切りたく、書類上だけの話ではあるが、分籍をした。

自分の戸籍謄本には、自分の名前しか無い。

やっと晴れて天涯孤独になれたと思うが、もっと早くからやっておけば良かったなとも思ってたりする。

書類上だけだとしても、親戚扱いに出来る分籍で、自分はやっと解放された気分になった。

それでも一応メールのみでも連絡はしてますけどね。

分籍したことは誰にも言っていないし。

人はたやすくウソをつくし、たやすく忘れる生き物だ。

第二の母、ママさんの葬儀でも、神道形式なのだが、まぁ仏教徒さして変わらない日程で、49日にはぜひ手伝わせてほしいと申し出て、ありがとうお願いしますと言ってたのに、連絡も無く1周忌も過ぎてた。

まぁ、全く連絡も取ってない相手でしたんでね。そんな扱いだろうとは思っている。

何せ、仲良くしていたのは、ママさんだけだったのだから。その他の人には嫌われてたと思われるし。w

父親が亡くなったのは、自分が小学生のころだ。

その時、紫色になった父親に触れて、あぁもう二度と目を開けることはないんだなと思った。

遺影を抱いて、わんわん泣いている母親。

父親は兄弟姉妹が多く、わんわん泣いて何も出来ない母親の代わりにてきぱき動いていた。

書類上、母親が手続しなければならないものだけ、最低限サインだとかその程度はやってたように覚えている。

ネットで知り合ったバイク乗り。

もともと心臓が弱かったと聞いていた人が居る。

通勤の途中で、心臓発作を起こし、そのまま亡くなられた。

その翌日、届かないことを知りつつも、彼にメールを書いた。

今まで一緒に走り回って楽しかったこと。どこに行ったね、今はもう苦しくないか。とか、そんな内容。

その翌日、ひっそりと通夜が執り行われ、その通夜にだけ参加させていただいた。

周りの人や、同じバイク乗りで知り合った人たちは、わんわん泣いていた。

自分はなぜそこまで泣くのかがわからなかった。

自分が死んだとき、そんなに泣かれては心残りじゃないか。

そりゃ、親しくしていた人が亡くなるのはつらい。

もう一緒に喋ったり、遊びに行ったり出来ない事は、寂しい。

でも、もし自分が死んだとき、周りがそんなにわんわん泣いてたら、心配になる。

無理にでも良いから、笑って見送ってもらいたい。

そう思っている。

バイクに乗り始めたのは、20歳になってからだった。

無知な自分は、車の免許は教習所で取るもんだと知ってはいたが、バイクに関しては知識皆無であった。

実は、中学の頃から、通学の途中で見かけてたバイク屋さんに展示されていた、スズキの真っ赤なレーサーに目を奪われていたもんだが、どうやって免許を取れば良いのか、さーっぱり知らなかった。w

専門学校に入ると、数か月後くらいに数人まとまって悪さをする組が出来た。

そこで初めて、バイクの免許の取り方を知りまして。お恥ずかしながら。w

自分は中学から、死にたい毎日を送っていた。

それでも思いとどまっていたのは、父親の葬儀で、親より先に逝くのは最大の親不孝だと言われていたからである。(父方の祖母談)

それでもリストカットやら、何やらと、死ぬための勉強をしていたりしたもんです。

そこで、バイクの免許の取り方を知った。

同級生の知り合いがバイク屋で、原付なら車体を何とかしてもらえそうだぞと言う話になり、じゃぁ免許取ってくるわ。と原付の免許を取りに試験場へ行った。

そして出会えたバイクは、今は亡きホンダNSR50。(現在は公道不可のレース用車両としてだけ残ってるんだったっけな?)

原付とは言え、当時でも最人気の車種である。そして、レースでも活躍している車体だった。

これならば、峠で心中してもらえるのではないかと、毎月のように峠に出かけた。

榛名山、赤城山、いろは坂、椿ライン、榛名山といろは坂に関しては、もう負けなし。w

通常の公道でも、良くケンカを吹っかけられたもんだ。

大抵信号待ちで、ケンカを吹っかけられる。相手は大抵中型か大型。

合図はアクセルをふかして隣に並ぶ。

信号が青になると同時に、スタートダッシュで、次の信号に引っかかるまで争う。

それでも負けなし。ww

誕生日には、決まって榛名山の途中にあるちょっとした駐車場があって、そこに夜中に行ってた。

寝っころがって、星空を眺めて、タバコふかして。

いつになったら死ねるんだろうなぁなんて思っていた頃、同級生がそれに感付いたようで、自分が峠に行きそうな時、車で付いてくるようになった。

自分が榛名山に行くと言うのに合わせて、某豆腐店のステッカーでも貼れば?って言うパンダトレノで。w

そして、そいつの口から出てきた言葉は

「車で付いていけば、最低でもあんただけでも運べるからな」

だった。

バーレーたーw

でも、その頃にはもう死ぬ気なんてなかった。

ひとつひとつのコーナーが面白くてたまらないのだ。

低速コーナー、高速コーナー、どれをとっても、ライン取りはどこが面白いとか、そんなことばかり考えるようになっていた。

どこで前を走ってるヤツをぶち抜けるかとか。

いやぁ若かったネ。w

あの頃は、毎年誕生日に決まって榛名山に行っていた。この日だけは榛名山と決めている。(今は行ってない。時間と金が無くて。w)

今や何歳ですとか覚えてすらないが、そんな専門時代から唯一今でも身近にいる人が出来た。唯一の親友となった。

そんな彼も今や妻子持ち。

一緒に行動する日は、ガクリと下がる。

そりゃもちろんである。家庭を大事に出来んヤツは、自分でも願い下げだ。

そして、自分は死にたい症候群から抜け出していた。

バイクが楽しくて仕方ないのだ。

バイクを知らなかった自分が、今や自分でメンテをし、車検も自分で通し、家に居るときは外でバイクに寄りかかって晩酌したり。

バイクに出会わなかったら、今の自分は無い。

それでも、車より死亡率が高い。

中型免許を取ってからは、ずっと遺書を書いている。気が向いたときに手直ししている。

何せ、いつ死んでもおかしくないからだ。

人間はいつか死ぬ。どうせ死ぬんだから、それまで生きてれば良いじゃんって思えるようになった。

だから、遺書を書く。

任意保険もちゃんと入ってます。仕事でも乗りますんで。

最低限の保険ですけども、対人対物無制限だけはつけてます。

最低でもそれだけあれば、事故った時の相手や、自分が吹っ飛んで車体も吹っ飛んだ先に人が居た場合でも、きちんと保障してもらえる。

死ぬまでバイクに乗れたら良いなぁなんて思いながら、きっとそれは叶わない。

何せ、聴覚障害だから。進行性なんで、いつか補聴器でも聞こえなくなる日はやってくる。

長年一緒に扱ってもらってるバイク屋の社長さんも、心筋梗塞を2回起こしている。(割には早期発見で手当てが速かったため、後遺症もなく今も元気では居るw)

今や、誰もかれもが、いつ死んでもおかしくない。

若者でも、赤さんでも、自分でも。

明日かもしれない。今日かもしれない。数時間後かもしれない。数分後かもしれない。数秒後かもしれない。

そんな時に、誰かが自分を看取って、悲しんでほしいとは思わない。

だから、自分は独りが心地よい。

聴覚は、劣性遺伝でもあり、子供や、その子供の子供にまで影響する。

そんな遺伝子は残したくない。

だから、原因の一つになりえるタバコはやめない。

いつでもバイクに乗りたいから酒は飲まんが。w

たまに、バイクに寄りかかって、バイクと語らいながら、飲む程度。

それでも、酔っぱらったことが実は無い。

どこで飲んでも、誰かと飲んでも、シラフかと思うほど冷静。

たまには酔っぱらってみたいもんだなとか、周りの人を見て思うけどね。w

金曜の夜中とか、気持ちよさそうに千鳥足で、大声で歌を歌って、歩いてる人とか。何か楽しそうで。w

死にたいと思っていて、心中してくれると思っていたバイク。

いつの間にか楽しくなってしまって、今や大型免許まで持っている。

原付(試験場のみ) → 中型バイク(試験場) → 普通乗用車(合宿) → 大型バイク(教習所)

と言う取り方をしたんだけど、中型バイク持ってると、車の座学は高速教習の2時間だけなんですよね。

後は、1日2時間程度車に乗るだけの毎日でございましてね。

大層ヒマなんですよ。w

でも合宿にしたのは、通学だとサボるからです。w

自炊コースで一番安かったのが新潟にありまして、そこに2週間ちょい。

オフシーズンを選んだんで、通常4人~5人で借りる部屋に独り♪

教習所で車乗った後は、バイクで買い物に出かけたり、あちこち遊びに行ったりしてました。

通学用送迎バスで、隣駅に行ったら酒蔵があって、そこに入り浸ってみたり。w

車に乗るだけなんで、送迎バスの時間にも余裕がかなりあったんですよ。

そんで、酒蔵に行ってベロベロになるまで利き酒して、送迎バスでアパートに帰る。

ベロベロとは書きますけども、酒の匂いがプンプンするだけの普通の人です。w

誰も乗ってない帰りの送迎バスの運ちゃんと、笑い話してたのも良い思い出です。

時に4合くらい日本酒を買ってきて、焼き鳥を肴に晩酌したりもしましたね。

足りなくて1升買ってきて、一晩で飲み干したり。

あれ?何か書いてる趣旨が変わってるな。

まいっか。( ´ ▽ ` )

まぁ、何だかんだと言いながら、この歳になるまで生きてしまってますが、割と楽しんでます。

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