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自分の聴覚障害とかあれこれ。

自分は聴覚障害です。

そう公言出来るようになったのは、30を超えてから。

小学校のころからよくいじめられ、原因がわからなかったのだが、20歳くらいで原因が納得した。

みなさんの時代ではどうだったかわかりませんけども、自分の時代は、機械を使ってヘッドセットをして、ピーとかポーとか聞こえたらスイッチを押して、聞こえなくなったら離すと言うシステムだった。自分はそれを、小学校時代すべて、ボタンを押すことがなかった。つまり、その時代から聴覚は正常な人より劣っていたことになる。

それは、不意に声をかけられても、聞こえていなかった可能性を示すと思う。

聞こえないんだろうと言うことは、ぱっと見でもじっと見でもわかる人は居ない。当時の聴覚障害の基準も、はっきりしたものでもなかった。そもそも、自分がそうであると言う認識もなかった。

なにより、両親が「世間体」を気にする傾向にあったため、知らされるどころか「通常会話が出来るので問題ない」と判断していたようです。

そのせいで、と言うつもりもないが、恐らく聞こえないことで呼ばれても振り向いたり反応しなかったりしたために、いじめのマトになったのではないかと言うのが今の気持ちです。

その後、いじめられまくりから逃げたくて不登校になったりしていて、先生から健康学園があるので暫くそちらで生活してみてはどうかと言う案を出してもらえた。両親は「世間体」をとても大事にしていたので、このまま不登校を続けるよりは全寮制の健康学園に行かせた方が良いと判断してもらえたのかもしれない。自分もいじめから逃げたかったため、すんなり受け入れた。

健康学園は、県をまたいだ先にあり、海の近くだった。高台に建っているので水平線が見渡せるほど。天気が良く雲もない快晴の日は、海の向こうにある千葉県の陸まで見えた。そこでの生活は、最初こそいじめられたりもしたが、ほんの少しの期間だけでいじめる人も居なくなり、のびのびと生活してました。黒板消しを先生が入ってくるドアの上に仕掛けたり、足元に水の入ったバケツを設置したり、先生の教壇に置いてあるイスにガムテープを裏返しに張り付けて、座って立ち上がるとイスと一緒に動く羽目になるとか、黒板消しにセロテープを貼って文字を消せなくして先生を慌てさせたり、年相応(?)のいたずらもやってわいわい笑顔で過ごしていたと思う。2学期に入ってこのまま卒業するまでここで生活出来たらどれだけ良いかと思っていたところ、急に先生に呼び出され、真っ黒な服を来た人と一緒に実家に帰ることになった。この時の記憶はここだけ覚えてる。

帰宅してみると、母親がわんわん泣きわめいていて、その向こうでは父親が寝ていた。

近付いてみると、何だか紫色をしいる。触れてみたら、硬くて冷たい。これはなぜか鮮明に覚えている。

そう。父親は、接待ゴルフの途中で心臓発作を起こし、そのまま亡くなったのである。自分を連れ帰った人は、親戚のおばさんだった。父親の病については、自分は全くわかっていなかった。記憶にあるのは、小学校低学年の時、多分退院したくらいの時に、もじゃもじゃのひげを生やした父親が家に居たと言う感じで、それ以前どこに居たのかの覚えがない。つまりは、1回は心臓発作を起こし手術をしていた状態で、だいぶ後から母親に聞いたが、父親の心臓の筋肉は4分の3死んでいたと。それから5年も生きながらえたのは奇跡だと。そういう時代でした。

それから、健康学園に戻ることもなく、元通っていた学校に通うことになり、またいじめのマトにされる日々が続いた。また不登校になったりもして教頭先生が出てきて説得しに来ると言う事態にも発展したりしたが、その教頭先生が作ったバレーボールクラブに入らないかと言われて、しぶしぶながらも通うようになり、バレーボールで体を動かしているとスッキリするようになって、いじめなんかどうでも良いや。酷いことしたヤツには仕返ししてやろう。と、健康学園で過ごした日々のおかげもあり、割と前向きに考えられるようになっていたんだと思う。涙が出るほど嫌なことをされた時は、その人を追いかけまわしてボッコボコにしたりもした。w

その日学校に母親が呼び出されて、帰宅した後何時間説教されたっけなぁ。

結局最後までいじめがなくなることは無かったので、地元の中学校には行きたくなかった。小学校と同じメンツが揃うからいじめられるのは目に見える。そこで、私立学校を受けてみるのはどうかと言う話が出て、自分はそれに飛びついた。母親は、それで学校に通ってくれるなら良いと判断したのか、受験することを否定しなかったので、受験日の3か月前からの猛勉強になったけども必死に勉強した。

そして受験日を迎えると、大雪。w

私立中学校までのバスも大幅に遅れ、受験開始時間に間に合わなかったのだが、大雪の事態を見込んで遅刻してしまったから教室では受けられないが、遅れた人は保健室で受験することに。どんな問題が出題されたのかもう憶えてないけども、国語と算数と作文だった気がする。国語と算数は、8割がた手ごたえが合って、作文に至っては時間が足りなく書きかけで終わってた。これは受からないかな。またいじめられる毎日か。と肩を落としてた時電話がなった。当時は合格不合格は手紙や掲示板ではなく、電話で伝えられていた。母親が真っ青な顔をして部屋に入ってきた。やはり落ちたのか。

「どうしよう。受かっちゃった」

母親の自分へ向けた第一声である。w

私立で授業料もハンパなく高額で、勉強したとは言えたかが3ヶ月、受かるはずもないと母親は思っていたそうな。合格したことを喜んでくれないんかい。とちょっと心の中で思ったけど、通学させてもらえることにしてくれたので消えて行った。

新しい人間になることで、きっといじめられることもないだろう、なんて言う安直な考えを持っていた。しかも高校までエスカレーターなので、高校受験しなくて良いと言う甘い考えもあった。で、結局いじめられる訳ですけども。そこでも恐らく、聞こえが悪いために反応できなかったことが「シカトするヤツ」と言うレッテルになったんだろうな。

中学高校と、結局いじめが止むことは無かった。授業中に消しゴムを投げてくるとか、チョークを投げてくる、習字の授業では半紙を丸めて野球ボールくらいのサイズに固めたものをぶち当てられたり。それでも、バレーボール部に入部して身体を動かし、それらを忘れるようにして、不登校もせず遅刻欠席もせずいそいそと通学してました。たとえ、先生がいじめる生徒に加勢したとしても。雨で中学生用コートが使えなかった日は、高校生と合同で練習することがしばしばあり、自分は身長こそ高くなく、むしろ低いと言われる状態で、高校生のチームに入って、高校生と同等の運動能力を持っていた。高校生との合同はとても楽しかった。が、それを羨む中学陣が、自分を「居ない人」扱いしてることに気付いたりして、独りで練習する日が増えて行った。結局、1年で退部することにした。担当してた先生は残念がっていたが、事実を知ろうともしない先生はいらないと思った。そのあとは文芸部に入り、歴史や史実を読んで談話したり議論したり、厨二病なポエムを書いたりする毎日に。それはそれでまた楽しかった。

高校になると、外部から受験してきた子も入ってくる。当時の偏差値は70とかだったそうな。内部受験の場合偏差値30くらいなのに。ww

中学では3クラスしかなかったのだが、外部から入ってきた人たちを入れると7クラスになって、いじめっ子軍団は勉強出来ないクラスに配属されて、いじめっ子でもお金持ちは最高進学クラスに配属され、自分は金持ちではないもののそこそこの成績を保っていたので真ん中あたりに配属された。外部受験で入ってきたひとたちはは良い人ばかりで、いじめられてもそれが薄れるほどの楽しさをくれた。いじめる人たちと同じ教室にならなかったことも大きな要因になったとは思う。

こう思うと、結局小学校から躁鬱だったんじゃないかと自分でも思う。w

高校卒業後専門学校に通うことになるんだが、その頃になってなぜか親が補聴器をレンタルすると言うことがあった。それまで、何度か親と大学病院の耳鼻科に通ったりしていたので、恐らくその時先生と何か話をしたのかもしれない。

突然ふってわいた補聴器。扱い方も教えてもらったけど、当時の補聴器は調整なんてツユほどにも効果が無く、むしろ何でもでっかい音で聞こえてやかましいと言う機械だった。それでも目立たない耳穴式をレンタルしたところを考えると、やはり外から見て「障がい者かもしれない」と見られるのを母親は嫌ったのだろう。結局、数か月もしない内に使わなくなって返却した。その頃になってやっと、もしかして自分は耳が悪すぎるのではないかと認識し始めた。(遅いw)

専門学校は、情報処理科に入った。割と何かを作ると言うのは好きだったようで、プログラムはアセンブリからScala、フォートランにC言語、VB、C++など学校にある言語はほとんど触っては、2年分ある課題を半年で終えてしまい、先生が困ると言う事態に発展した。何を出題しても作ってバグなしで提出してくる、よく言えば天才型、悪く言えばやり過ぎの困ったちゃん。疲れ果てた先生は、今後は出席扱いにするから来ないでくれと言われた。他の一所懸命やってる生徒のためにならないからだとか。卒業時には、プログラムに関してはA+と評価を貰った。が、就職はそんな甘くなく、ことごとく落ちた。その時に、コミケで知り合った良く連絡を取る人が、行き先が無いなら自分の会社に入るか?と声をかけてもらい、サブプログラマとして、ゲーム制作会社に入社した。仲良くしてもらってて声をかけてくれた人は、その会社の社長をしていたのだから、びっくりした記憶はある。負債が8千万ほどあって、ほどなく倒産しましたけども。オチとしては給料を1円ももらえないまま、交通費だけ支給され、サブプログラマ 兼 サブシナリオ 兼 線画読み取り作成 兼 線画ごみ取り 兼 CG色塗り 兼 会計 兼 おさんどん係 にいつの間にかなっていて、1か月会社に寝泊まりしたままデバッグしてた記憶もある。倒産されてしまって何だかみじめな人生の始まりだななんて今は思います。w

それからは、どの会社を受けても受からず、食にも困るほどで。日雇いから契約社員、バイト、出来ることは何でもした。引っ越し手伝いだの、当時は原付の免許しか持っていなかったもんで。たぶん聴覚が弱いために三半規管が狂って来る眠気に逆らえないこともあり、デスクワークはほぼ数か月務められたら良いほど居眠りすることも多く、力仕事を選ぶようになったりもした。ご飯を食べるために何でもやった。

初めてバイク便をやったのも原付で、持ち込みなら許可すると言われて看板を借りたもんです。

少ないお金で取れる免許は取れるだけ取った。(原付(試験場しか無い)から始まり、中型バイク(試験場)、普通自動車(教習所)、大型バイク(教習所)、なぜかフォークリフト(教習所))

そしてようやく見つけた正社員。それまで何度転職しただろうか。自分の履歴書に書く職歴は、別紙参照として2ページ目まで書ける状態です。w

やっと見つけた正社員。自分なりに頑張っていたとは思う。しかし、自分は職場のパワハラで布団から起き上がることが出来なくなるほどのストレスを背負って、病欠として会社を休むことになる。

人より遅い正社員だが、きっとこれで実家の更新(家は持ち家でしたが借地だったので更新が20年に1回数百万発生する)のための費用を何とかすることが出来るだろうと、リサイクルセンターでフォークリフト運転手として入出庫担当に配属された。

その時はまだ手帳を持っていなかったが、耳が人より悪いことは面接の際伝えてあった。

工場みたいなものなので、うるさい職場だから耳が悪いなんて問題ないよ。

と言われて就職を決めた。

正社員である試用期間は、何ともなく過ぎた。ある程度の流れは把握でき、同じ入出庫担当の方々と色々話をして、わからないことがあれば、いつでも聞いてくれと関係は良好で、どのパレットはどこに搬入し、こういうパレットはここじゃないのでコンベアに乗せるとか、声をかけられた別の担当区域でのパレットも、フォークで運んでどう分配していくか覚えた。

試用期間終了してからしばらくして、産廃担当の自分より若手で「仕事出来るから(苦笑)」と言われる人と衝突する事件が勃発した。入庫の時間(搬入しているトラックの運転手さんも次の仕事がある)を優先して、産廃処分するパレットをほいっと取り敢えず置いたことから始まった。

自分の担当は入出庫なので、自分の足で走って入庫時間前に並んでいるトラックの運転手に、入庫可能時間になったらどの辺にトラックを置いてもらって、自分が新人なので頼りないことが多いかもしれないと伝え、搬出が終わったらどのように回って出庫していただくかとか指示していました。入庫可能時間になったら、叫びながら運転手さんとコミュニケーションをとり、フォークリフトでガンガン運ぶ。その際、産廃も一緒に運ばれることもあり、産廃は決められたスペースに置き切らなくてはならなかったが、トラックの数も運ぶ量も多かった日で、先に全部出して運転手さんを帰してあげないととあくせく運んだ。その日は産廃の量がそんなに多くなかったのもあって、取り敢えず置いて後で直しておこうと思ってやったことだった。

その時に、まだトラックから運び出してる最中にも関わらず、怒鳴り声でフォークリフトの前に仁王立ちされて呼び止められた。こんなところに置いたら後が困るだろうとのことで。その言い方があまりにもケンカ腰だったもんで、こっちも忙しいのによぉ!とケンカとして買ってしまった。わかったからどけよ!フォーク動かせねーからできねぇだろ!と。

今思えば大人げないねぇ。w

そのいじめっ子(大人?w)曰く、試用期間が終了したら、100%社員としてミスをしてはならない だそうで。

その日から、その人と毎日怒号を交わす日々になり、逆に心配してくれる別部署の方々が危ないからこっちでしばらく仕事してくれないか、など声をかけてくださり電動フォークリフトを運転するのが楽しかったりするほど。基本入出庫係から始まるので、怒号が聞こえてくる時間になると別部署の方々が声をかけてくださる。そんな毎日が8か月ほど経過したころ、身体に影響を及ぼすまでになった。

仕事に行かなければ。と思うと、めまいがして立ち上がれなくなって、そのことを伝えて休み続けていたんだけども。

その時思いだしたことがあって。大学病院の耳鼻科に、めまい外来と言うポスターがあったなと。そして、久方ぶりの耳鼻科受診でめまい外来を受けてみたら、首をちょっと傾げられて、まずは聴覚測定からしましょうと言われました。

「聴覚障害の数値を超えていますが、身体障碍者の申請をしますか?」

検査が終わって先生に言われたセリフである。当時は「は?」と思ったが、取り敢えず細かいことを聞いた。この時点でもう30間近だった記憶がある。(ちなみに、片耳だけでは障がい者扱いしません。)

もうその時は、あの仕事場から逃げたい、このストレス過剰な状況を何とかしたいの一心で、とにかく何か無いかと模索していたので、まず申請してみることにすると伝え、先生からは仕事場の話をしたときに、精神科も行った方が良いかもしれないと促され、その足で精神科にも通うことにした。と同時に、会社の部長から電話があり、遠回しに辞めてくれないかなぁ~と言われて退職した。

診断の結果、「双極性障害」と伝えられることになり、こちらも精神障害手帳の申請が出来ると言われ、申請することにした。

双極性障害と言うのは、躁うつ病と言われます。

急にハイテンションになって何でも出来るようになったり、急に落ち込んでもう生きていてもダメなんだと思うようになったり、かなり両極端な状態が続くのです。大抵はうつ状態のままが多く、ずっとご飯を食べなかったり、風呂にも入らず処方された薬を飲むときと、トイレに行く以外は1日中寝てばかり、脳内ではどうやって自分の最期を迎えようか、どの場所で実行しようかなど延々と考えてました。

すぐ廃版にされた「自殺完全マニュアル」も購入して持ってたりする。w

ちなみに、内容は現実的に実行するにはめんどくさいモノばかりで、個人でやるには難しいと素人の自分でも判断できる内容でした。

部屋に引きこもり、出てこない自分に対して「世間体」を気にする母親が何度でもドアをたたいては大きな声で出て来てくれ話をしようと言って居た。小学校高学年になった頃に、父は心臓病で他界していたため、当時未成年の子供4人を女手1つで育てている人で、彼女も彼女で余裕はとても無かったと思う。父親の残した保険金と、まともに仕事をしたことが無いのに仕事をしている元主婦でしたから。

自分も自分で余裕が無く、大声を出されると躁状態に入り、破壊活動をするようになる。柱を殴りまくって拳を割ったり、家具なども使えなくなるほど素手で破壊し、目についた皿を割ったり、部屋からゴミ袋を外に投げ捨てたり。

正社員だったころに何とか貯金していたお金を使って、引き籠り期間を過ごした。借地の更新をするために貯金していたお金だった。10年は引き籠りだったと記憶してるが、そのころの記憶はほとんどない。それでも、親に金の世話をしてもらったことはないと言うだけは覚えている。

いつもはほったらかすのに、こういうときだけ過干渉になる母親が、とても嫌になることがあり、それを考える自分にも嫌悪を持つようになり、兄弟4人の中で自分だけ誰とも仲良く出来ず孤立しているのも相まって、家を飛び出し今に至ります。

結局、6年ほどバイク便をやってます。看板はあちこち変わってますが。現在はフリーランスとして、趣味のバイク便です。特に広告も出してないので、本当の知り合いのみが活用してくれます。1人で活動してますから量には限りございますけども、24時間起きている限り対応できますのでご利用になりたい方は連絡ください。(ちゃっかり宣伝)

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