catlog

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discocat
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私は噺家ではないので、同じ話しか出来ない。今から十年ほど前だったか、年末進行のデパートで自分が発達障害者であることを報告しても分かってもらえず、盾と矛みたいな指示が飛んで来る中ついて行こうとして、でも出来なくて上司がキレてそれでなにもかもどうでも良くなって自殺未遂をしたのだった。もう死のうと思った。もう充分ではないかと。こんなに生きづらい思いをして、それでも生きる意味なんてない。そう結論づけた。それで、薬を一気飲みしたのだった。

それから……流れ流れて、今の部署に辿り着いた。そして、こんな仕事誰でも出来るものでありこれではまるで雑用係ではないかと思い、また自分の才能/能力を活かせる場所が他にもあるはずと思い、そんな構え/覚悟で仕事をしていたのだった。ひと言で言えば腐っていたのだ。そんな中、「しくじり先生」を観た。私が観た回は堀江貴文が出ていた。彼が刑務所の中で、腐った心理を捨てて虚心に仕事に打ち込んだ話を聞いて自分も頑張ろうと思い心機一転した。

世の中というのは案外合理的に出来ているのではないか、とも思う。今の私に見合った場所が今の部署であり、そして今の同僚や先輩なのではないか、と。働きたくても働けない人がゴマンといる世の中。今与えられた仕事は大事にしたいし、そんな場所で見守って下さっている方に無様な姿は見せられない。そう思い、髭を剃り身だしなみを整えるところから始めて今に至るのだった。

是枝裕和『ワンダフルライフ』を観直す。自分の仕事はなんの役に立っているのだろう、と思った時に観てしまったせいかベタなメッセージを探す観方になってしまった。自分の仕事は他人の「喜び」に奉仕していることに醍醐味があるのではないか、と思った。良い商品を提供することで相手が笑顔を浮かべる。それが要ではないか、と。なにか大きなことを成し遂げているわけでもないのだが、しかしミクロな「喜び」をバカにしてはいけない。そう思った。

今年、あるいはテン年代最後の本としてミシェル・オバマ『マイ・ストーリー』を買う。自分はまだまだ途上にある……そんな彼女のメッセージを糧にこれから頑張ろうと思う。

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今日は私がお世話になっている団体の忘年会。わざわざ一年の終わりに忘年会なんて開いて一体なにをするのだろう、とこの手のイヴェントには否定的な私なのだけれど、もちろんこの忘年会は参加させていただいた。色々積もる話もあるし、それに鍋パーティーというのが私の関心を惹いたのだった。それで、午前中は映画の一本でも観ようかなと思ったのだけれどもそんな風にも行かず Discord でチャットをしている内に過ぎてしまった。サボってしまったわけだ。反省。

それで、会場となるカフェに行く。途中でイオンに寄る。実家の父に偶然会う。そこで、「住んでいるところが変わるって聞いたんだがどうなんだ?」と言われる。それは聞いてなかった。私が今のグループホームから引っ越さなければならないということか……年末の気忙しい気持ちの中で考えるのはキツい。隣人から苦情でも出たのだろうかと考えてしまう。

忘年会はしかし楽しかった。鍋を突きながらあれこれ会話。ビンゴ大会があり、二等を引く。それで景品をもらうことになったのだが、嵩張らないし良いかなということで様々なプレゼントを押しのけてイオンの商品券を選んでしまう。こういう大会で運が良いことなんて滅多にないことなので、来年の分の福も使い果たしたのではないかと思ってしまう。カラオケ大会でなにか一曲と思って井上陽水「少年時代」を歌う。夏の歌だったことに気づいたのは歌い始めてからだったが、まあしょうがないので兎も角も歌った。

帰り。歩いて帰りながら、私が現在ここに居て、過去に東京に居たということが両立するのはどうしてなんだろうと考えてしまう。過去と現在が地続きで繋がっているとはどういうことなのだろうか。過去に流れていた時間と今流れている時間の速さが同じ保証はあるのだろうか、と……まあ、屁理屈/妄想だ。下らないことを考えるものだと思い、しかし止められなくて吉田健一『時間』を読むことを決意する。

グループホーム帰宅後夕食を摂る。また Discord でやり取り。「I wish I could have your mentality」「I love you」と見知らぬ青年から慕われる。そうだろうか……嬉しいことではあるが、私なんて本当に一介のしがない発達障害者に過ぎないので、過大評価されても困るのだった。

discocat
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人生に意味はない。でも、楽しい。それでなにが悪いのだろう……そんなことを二十代の頃から延々と考えて来たように思う。それは宮台真司の「意味から強度へ」「まったり生きる」という概念を学んだからだろうと思う。つまり、「この人生になんの意味があるんだ」とクソ真面目に問うのではなく、むしろその時その時起こる楽しいことに素直になってみるという生き方だ(宮台真司自身はあまりこの発言を顧みないが、私は今も生きる指針のひとつにしている)。

私は宮台真司の本を読み漁っていたのと同じ時期に、フィッシュマンズという日本の伝説的なロック・バンドの曲を聴くようになった。今でも彼らの曲は私の傍らにある。彼らもまた、人生に意味はないと歌っていたのだった。でも、それは絶望なんかではなかった。いや、絶望だったのかもしれない。誰も頼まれてこの世に生まれて来たわけではない。気がついたら(いきなりゲームの中に投げ込まれる『ジュマンジ』ではないが)この世に居たのだ。ただ、そういう条件で生きること、楽しむことをフィッシュマンズは薦めていた。やけっぱちになりながら、しかしエレガントに。

最近、『シャングリラの予言』という本を読み植草甚一について学ぶようになった。そして、植草甚一もまた人生に意味はないと居直っているニヒリストである、という旨の文章を読んだ。どうやら私の人生、この「人生は無意味だ」という言葉と「でも楽しければ良い」という言葉を往復する運命にあるようだ。人生の圧倒的な下らなさを噛み締めつつ、しかしそれでもなおその下らなさを生き切ること。しかもユーモアを以て。

ここのところ、古井由吉の書いたものを読み返している。古井由吉は考えれば考えるほど不思議な作家で、内向の世代に属する作家であり自分の考えを内側にずっとめり込ませた孤高の文士(?)のように思われる。しかし、読めば彼がむしろ風俗や文化の変化に敏感だったことが知られる。外をきちんと見ていたのだ。そのヴァランス感覚の巧みさ故に、古くなっても腐らない強度があるように感じられる。老いていく。しかし、それを嘆く必要が何処にあるのだろう。アンチエイジング? 老いるなら自然に任せようではないか。『仮往生伝試文』や最近の作品を読みながら、私は自分の老いについて改めて考える。

今日も仕事。相変わらず誰にでも出来る仕事。だが、ホリエモンやイチローに倣って腐った意識を捨てて、虚心に自分の仕事と向き合う。私の仕事もまた下らない。しかし、楽しい。何度でも書く。断酒して流す汗は心地良いし、シラフで食う飯は旨い! 今日は映画も本も消化出来なかった。Discord で私が書いている英語の小説を褒めてもらう。嬉しく思う。成功しなくても良い。確かに、私の書いているものが必要とされている人に伝わればと思っている。